前回のノート田山花袋『蒲団』を読んでみた 02では、時雄が文学の中の知識人や恋する男に自分を重ねながらも、その気高さや覚悟からは少しずつ外れていく様子を考察した。このずれは、芳子に「新しい女」の生き方を教える場面で、さらに大きくなる。

今回は、時雄が芳子に語ったマグダ、ノラ、エレーナという三人の女性と、時雄が自分自身を重ねた “Superfluous man!” について、順に考えていきたい。

故郷/ヘルマン・ズーダーマン

『マグダ』は、正式には『故郷(Heimat)』(1893年)という戯曲の主人公マグダの名で呼ばれることが多い作品。

あらすじ

マグダは地方都市の厳格な軍人の父のもとで育つ。しかし、自分の人生を自分で決め、芸術家として生きたいと考え、家を飛び出す。その後、彼女は有名なオペラ歌手となって帰郷する。だが父は依然として権威主義的で、「娘は父に従うものだ」、「昔の過ちは悔い改めよ」という態度を崩さない。マグダは父に向かって、「私はあなたの所有物ではない。」という趣旨を主張する。父娘は最後まで和解できず、父は倒れてしまう。

物語の構図

次に登場する『人形の家』に非常に似ており、ノラは家庭を出ていく女性だが、マグダは成功した後に故郷へ戻り、「私は間違っていなかった。」と父の価値観そのものへ挑戦する点が異なる。当時の日本では「ノラ型」、「マグダ型」という二種類の「新しい女」が議論されたそうな。

「蒲団」との関係を考察する

時雄は芳子に、

ズウデルマンのマグダの言った通り、父の手からすぐに夫の手に移るような意気地なしでは為方が無い。日本の新しい婦人としては、自ら考えて自ら行うようにしなければいかん

と説くわけだが、物語の後半で芳子と恋人の田中の親密な関係が判明すると、時雄は嫉妬と動揺で問題を処理できず、芳子の父の権威を再び呼び戻す。芳子の父に頼るのは、むしろ時雄なのである。

人形の家/イプセン

「イプセンのノラの話」として登場する。1879年初演の戯曲。日本での初演は1911年。当時は社会現象になり、「新しい女性」「自立する女性」を意味する「ノラになる」という言葉まで生まれている。

あらすじ

これは私も3回ほど読んだことがあり、繰り返し読んでも面白い。物凄く簡単に状況だけをまとめると、始まりはノラは夫に頼り切った家庭の主婦に見えるが、しかし実際には、かつて夫の命を救うために秘密で借金をし、その際に父の署名を偽造していた。事実を知った夫が、ノラの犠牲よりも自分の体面を心配する姿を見て、ノラは自分が父や夫の「人形」として生きてきたことに気づき、家を出ていく。

物語の構図

「新しい女性」は「知的階級の情けない男」を残して去る、という構図である。

「蒲団」との関係を考察する

芳子はノラのように自ら家を出ていくことはできず、最終的に父によって故郷を連れ戻される。時雄は「知的階級の情けない男」として残される。時雄は芳子にノラを教えながら、芳子が実際に家庭や既成秩序から外れようとすると、その出口を閉ざす側に回った、とも言える。

その前夜/ツルゲーネフ

『蒲団』では時雄が芳子に、「イプセンのノラの話や、ツルゲーネフのエレネの話」を語るが、それはツルゲーネフの長編小説『その前夜』(1860年)の主人公、エレーナ・スターホワの物語を指す。『オン、ゼ、イブ』のエレネとあるので、「エレネ」は『その前夜』のエレーナであろう。1

あらすじ

エレーナは、裕福な家庭に生まれながら、家庭内の空虚さや上流社会の無目的な生活に満足できない若い女性で、自分の人生を捧げるに値する目的を求めている。

彼女の周囲にはロシア人の青年が二人おり、彼女が選ぶのは、祖国ブルガリアをオスマン帝国の支配から解放しようとする革命家インサーロフだった。エレーナは家族の反対を押し切って彼と結婚し、祖国へ戻ろうとする彼に同行する。途中、ヴェネツィアでインサーロフが死んでも、エレーナは単独でブルガリアへ向かい、その後ロシアへは戻らない。

物語の構図

ノラとエレーナは似ているが、少し違う。

  • ノラは「自分自身を教育するため」に家庭を出る。
  • エレーナは、愛する男性と社会的・政治的な目的を共有するために家庭を出る。
  • ノラの目的はまだ未知だが、エレーナには進む方向がある。

「蒲団」との関係を考察する

時雄は芳子に、ノラやエレーナのように

自分の遣ったことには自分が全責任を帯びる覚悟がなくては

と教訓を垂れ、芳子はそれを聞いて

基督教の教訓より自由でそして権威があるように考えられた

とある。芳子はエレーナの激しい感情と強い意思のある性格、そして悲しい末路へ向かう恋物語を自分に引き比べて、自分自身をエレーナの物語の中に置いた。責任も取れず、自由な選択に伴う代償を引き受けられなかったのは、むしろ時雄であった。

時雄は妻と離れることも、芳子に気持ちを伝えることも、田中との恋を認めることも、少なくとも選択肢としては存在した。しかし、そのどれを選んでも現在の安定を失う。そのため、選ばないことを選び続けた、というわけである。

“Superfluous man!”

日本語では一般に「余計者」「余分な人間」「余計な人」などと訳される。ロシア語では лишний человек、直訳すると「余った人間」という意味になる。これは特定の一作品の主人公名ではなく、19世紀ロシア文学に現れる人物類型である。

典型的には、下記の傍観者となる男性を指す。

  • 教養や才能はある
  • 社会や現状には不満を持つ
  • 理想を語ることはできる
  • しかし決断や実行ができない
  • そのため恋愛にも社会活動にも参加できない

語を広く定着させたのが、ツルゲーネフの『余計者の日記』(1850年)である。

『蒲団』で時雄は、自分の人生を振り返り、

一歩の相違で運命の唯中に入ることが出来ずに、いつも圏外に立たせられた淋しい苦悶、その苦しい味を彼は常に味わった。

と考え、自分を “Superfluous man!” だと思う。

この自己認識は、ある程度は正しいであろう。時雄は、

  • 芳子を愛しているが、告白しない
  • 妻との生活に不満だが、離婚しない
  • 芳子に自由を教えるが、その自由を認めない
  • 田中との恋を保護すると称しながら、嫉妬する
  • 最後まで決定的な行動を他人に委ねる

人物である。ただし、ここには自己美化がある。

「余計者」は本来、才能がありながら社会構造のために行動の場を失ったロシア知識人という歴史的背景を持つ。時雄の場合は、社会から完全に排除されているわけではなく、職も家庭も作家としての地位もある。

「蒲団」との関係を考察する

したがって彼が “Superfluous man!” と叫ぶとき、単に自分を分析しているだけでなく、自分の優柔不断や嫉妬を、ロシア文学的な悲劇として高尚に見せている面もあると思われる。半分は自己認識であり、半分は自己弁護であろう。

そして時雄は、淋しさに堪えられず、昼から酒を飲むと言い出し妻に準備させる。肴がまずい、と言って癇癪を起こしてヤケ酒をあおって泥酔する。ついにはトイレで用を足すとその床で横になってしまうという醜態を晒すのである。

マグダ、ノラ、エレーナはいずれも、自分の選択によって何かを失い、その損失を引き受けた女性である。時雄は彼女たちの生き方を理解し、芳子にもそれを説いた。しかし、自分自身については選択の責任を引き受けられず、実行に移せない。その不決断を「余計者」という文学的な運命として理解しようとした。

オヂの私は、時雄のダサさよりも、哀れさに気持ちが向いてしまう。倫理観とエッチな妄想に揺れ動くオヂの内面が、克明且つリアルに描写される様子を楽しでいた私はもう居ない。もはや笑ってはいられないのである。先ほども引用した下記の一説は、刺さるどころではなく、刺さり過ぎて悶えてしまう。

一歩の相違で運命の唯中に入ることが出来ずに、いつも圏外に立たせられた淋しい苦悶、その苦しい味を彼は常に味わった。

モデルは花袋と身の回りの人物たちであり、作家自身の出来事を諧謔的に描いたのかと思っていたら、読者自身をも巻き込んできた感じである。時雄に同情する私はもちろんそうだが、きっとこのノートを読んでいる読者の中にも思い当たるところがある人がいるのではないだろうか。

しかし、次に登場するモーパッサンの『死よりも強し』では、問題がもう一段深いところへ移る。そこでは、行動できない知識人という時雄の自己像よりも、老いと若さへの執着、そして衰えない欲望が前景化してくる。この作品については、次のノートで考察する。

脚注

  1. 「新しい女」の読書—『蒲団』論 鈴木宏明| CiNii Research