2026年7月23日(木) 、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)は、「ロッド空港の英雄的で不朽の物語の英雄の一人である過激で革命的な国際主義者として哀悼の意を示す」と、岡本公三の訃報を伝えた。

日本国内の報道は時事通信が次のように短くまとめて伝えている。「1972年にイスラエルのロッド空港(現ベングリオン空港1)で起きたテルアビブ空港乱射事件 - Wikipediaの実行犯で、レバノンに亡命中だった日本赤軍メンバーの岡本公三容疑者が23日、首都ベイルート南郊で死去した。78歳だった。」

報道各社ほぼ同じ内容で、PFLP の発表により岡本の死去を知ったにもかかわらずその死去のみを伝えるものが多く、PFLP が岡本を英雄視し悼んでいる点も伝えている報道は少ない。その代わり、72年テルアビブ空港乱射事件の実行犯の一人で、85年のイスラエル・パレスチナ捕虜交換でレバノンへ移り、2000年にレバノン政府から政治亡命を認められ、国際指名手配されていた旨を伝えている。多くの報道は、「PFLP によると岡本は死亡した」という事実と、岡本が国際手配中の容疑者だったことに重点を置いている。日本赤軍について、日本の報道は今も扱いにくさを抱えているように感じられた。

また報道では、「ベイルート近郊」で死去と伝えているが、報道された死亡場所とは別に、岡本が晩年を過ごした場所について、私は以前から気になっていた。2022年5月31日の記事『「強かった公三を記憶に」 中東の組織が日本赤軍メンバーを守るわけ:朝日新聞』によると「ベイルートから車で南に1時間ほど走った地中海沿いの街」であり、記事画像には海に突き出た城塞が写っている。この写真を見てサイダーの城塞であることはすぐに分かった 2 。 少なくともテルアビブ空港乱射事件からちょうど50年経った2022年5月時点では、岡本はサイダーに住んでいた可能性がある。

97年10月に私はサイダーを訪れこの城塞を見学した。城塞のすぐ南には旧市街があり、スーク(市場)を歩いた。そのときに声を掛けられたレバノン人教師モハンマド(22歳)に街を案内してもらった。彼はキチンとしたトラディショナルな服を着ており、道で会う人々と挨拶を交わしていた。街の人々に尊敬されているようだった。街には 82年のイスラエル軍機による爆撃の傷跡がところどころ残っていた。ベイルートにも弾痕の残る建物は残っていたが、それ以上の破壊の傷跡だった。これを見てサイダーより更に南の街スールへ行くことを取りやめた。

この岡本の訃報によって、もうひとつ記憶が呼び戻された。約30年前に documenta X で見た映像作品である。

レバノンのサイダーを訪れたそれより少し前の97年7月に私はドイツのカッセルという町で開かれていた documenta X という芸術祭に行っていた3。そこで観た “Johan Grimonprez: Dial H-I-S-T-O-R-Y” という映像作品に衝撃を受けた。映像は主にハイジャック事件のテレビ映像や当時の世相をつなぎ合わせた作品なのだが、“Japanese Red Army” が何度も何度も登場する。当時26歳だった私は、日本赤軍と連合赤軍の違いさえよく分かっておらず、「あさま山荘事件」について父から少し聞いたことがある程度だった。そのため日本赤軍が起こした事件が、国際的な映像史として大きく扱われていることにびっくりしたのである。

ご覧いただけば分かるが、主にハイジャックと国際テロをめぐるテレビ映像が連ねられ、その間に国家、報道、世論に関わるさまざまな映像が挿入される、日本赤軍だけで無く、日本赤軍以外の日本人も関係したハイジャックとテロが多数登場することに驚くだろう。

作品冒頭は、よど号事件、特攻隊出撃前のセレモニー、瀬戸内シージャック事件と続き、奥平剛士・安田安之・岡本公三が起こしたテルアビブ空港乱射事件(YouTube 7:20)で岡本公三が捕らえられた直後の映像が流れ、岡本の言葉が画面に現れる。

私たち赤軍兵士は、死ぬときにはオリオン座の星になりたいと思っていた。
自分たちが殺した人々も、同じ空の星になるのだと考えると、心が静まる。
革命が続くかぎり、星はどれほど増えていくのだろう
岡本公三

岡本の言葉の後、PFLP 側が用意したとみられるチェコスロバキア製 vz.58 自動小銃が証拠として扱われる様子や乱射事件後の生々しい映像が流れる。この事件だけではなく、その他の日本赤軍が起こした下記リストの事件の映像も流れる。特に、ベンガジから帰国する夫を迎える女性の場面では、家族の再会が劇的なドラマのように描かれ、その瞬間に殺到する報道陣カメラマンが目に付く。

日本赤軍の PFLP、さらにドイツ赤軍派(RAF)とのつながりを示す映像も登場し、それらテロ組織同士のつながりが深いことが分かる。こうした関係を知れば、岡本の死去がなぜ PFLP によって発表されたのかも理解しやすい。

この映像作品は 68分あり、長距離ハイジャックの犯人ラファエレ・ミニチェロの映像や世界初のハイジャック事件、PFLP、ヒスボラの起こした多くのハイジャック事件4がどのように物語に編集され報道されたかが描かれている。作品にはこのほかにも、国家による暴力、冷戦下の指導者、報道によって象徴化された人物が次々と登場する。

作品では、深刻で悲惨な映像に、しばしば軽快な「ハッスル/ Van McCoy」が重ねられる。

エンドロールはとりわけ強烈で「ハッスル」がバックに流れるなか旅客機の墜落シーンが連続する。墜落シーンの最後を飾るのは、1996年11月23日コモロ諸島沖に新婚旅行中の観光客がが偶然撮影したエチオピア航空961便の着水事故である。ハイジャックされた同機は燃料切れになって海上不時着し、激しい水しぶきを上げたところで テロップが表示される。“HONEYMOONERS VIDEOTAPE / HIJACK HORROR!” と。

岡本公三の訃報を聞いて私が思い出したのは、事件そのものよりも、事件がテレビ映像の中でどのように歴史へと編集されていくかを見せたこの作品だった。PFLP は彼を英雄として送り出し、日本の報道は国際手配中の容疑者として伝える。その隔たりを見ていると、私は再び Dial H-I-S-T-O-R-Y の映像を思い出す。同じ出来事であっても、誰が語り、どの映像を選び、どの言葉を添えるかによって、まったく異なる歴史に見えてくる。作品の最後に現れる “HIJACK HORROR!” という見出しは、惨事を説明する言葉であると同時に、惨事を商品に変えるテレビの暴力のように思えた。

脚注

  1. 1997年当時でもベングリオン空港からの出国には非常に時間が掛かった。私は4時間前にチェックインし出国手続きをしたが、別室で持ち物検査を受け、出発便にギリギリ間に合った。ここでは日本人であることが逆に危険視されたのかもしれない。

  2. 1997年当時、私はバックパッカーでヨーロッパから中東を旅していた。中東の旅の目的はパルミラ、ペトラ、バールベック遺跡を見ることで、サイダーを訪れたのはうまい中華料理が食べられる、という噂を聞いたからである。ベイルートのコーラ地区からサイダー方面へのバスが発着しており、バックパッカー仲間が「コーラからサイダーへ」と冗談を言っていたのを覚えている。

  3. ドイツのカッセルで5年に一度開かれる芸術祭である。

  4. 参考 ≫ 航空機ハイジャック事件の一覧 - Wikipedia